シェフの生い立ち 最終章

  柳橋「大吉」さんを皮切りにいくつかの飲食店でアルバイトをしました。 もちろん親と学校には内緒です。     父親は変なところ厳格で、バイトなどもってのほか、「学生は勉強するもんだ。もしやるんだったら家を手伝え。」こんな調子です。 正直申しまして、この頃理由なき反抗期で父親の存在がとかく煙ったく、理解できませんでした。当の本人は、土、日もバイトに明け暮れて、そこで知り合った人達と一緒に、終わった後六本木や赤坂、青山といった盛り場で遊ぶようになり、ちょっとだけ不良してました。地元や高校の同級生がだんだんと幼く感じ、子供にみえてきたりもしました。 高校の勉強などほとんどしなくなり、成績がみるみる内に落ちてゆき、担任の先生には、「このままだと、間違いなく留年するし下手すると退学だ、分かってんのか。」なんてはっぱをかけられました。 学校の成績が良いとか悪いとか、 有名大学、上場企業、出世欲、無関心でありました。 そんな事より世の中、もっと大切な事がある。なんて、粋がっておりました。                 落ちこぼれのたわ言にすぎません。 ただ、漠然とはしていましたが、コックコート姿の男達が額に汗して本気で仕事に取り組む姿が、かっこよく目に焼きつき脳から離れようとしません。大変道のりは長く険しいと承知の上で料理の世界に一歩ふみこもう。そして、いつか、自分の店を持つ。うっすらですがそんな夢を描くようになりました。 『働かざる者、食うべからず。』 『どうせやるなら、フランス料理だ。』 とは言っても当時、街場ではフランス料理を学べる店はほとんどないに等しく、ホテルや結婚式場といったところです。料理学校で学ぶという選択肢もありましたが、当時専門学校にいけるだけのお金は残念ながら、家にありませんでした。冬休みからバイトを続けていた上野 精養軒に就職が決まり、ここからが修行のスタートです。 ちなみに初任給が手取りで7万円。給料がもらえるだけましです。働いてみて、気がついたのですが、アルバイトとプロの仕事はまったく違うという事。厳しさも違いました。あとフランス料理の基礎や基本となる根っこの部分が、何一つ分かっていません。まわりの同期の人達は、料理学校を出ており、教わる事に対して吸収が早い気がしました。 これが自分にとって、だんだんとコンプレックスに変わり、その闇の中から抜け出せず、自分の殻の中に閉じこもるようになり、半分いじけていました。 「石の上にも3年。」 とにかく3年間は働き、少しずつですが預金をして、あれほど勉強嫌いだった自分が料理学校へ行って本気で勉強したいと思うようになり、料理の技術だけではなく、フランスの風土や文化、地方料理、ワイン、ついでにフランス語も。 フランス人の運営する料理学校、ル・コルドン・ブルーに入学、ダニエル・マルタンシェフと運命的な出会い、ワインはソムリエのデュランさんから学び、フランス語はアテネフランセに通いました。 あれほど勉強嫌いだった僕が、初めて本気で学びました。 「好きこそものの上手なれ。」 やはり、好きな事を仕事にできるって本当に幸せです。

コメント

    • 稲森麻理子
    • 2018年 8月 31日

    初めてこちらのページを読みました。ダニエルマルタンから検索しました。
    今私はダニエルマルタン氏に料理を習っている53才の主婦です。
    いつかこちらのお店にお料理を食べに行きたいです。

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