シェフの生い立ち その2

  昭和30年代  東京オリンピック、高度成長期、好景気、ものづくりの町。 蔵前も例外ではなく中小企業の社長さんや町工場の職人さん達がとても生き生きとして、輝いていて、明日はもっと良くなると誰もが信じていた時代。 家族で出かける映画鑑賞会と外食はとても楽しみで絆を強く感じる唯一の時間です。 浅草は地元なので良く食事に連れてってもらいました。 当時の浅草六区は大変なにぎわいをみせ、流行の発信地です。                                         新世界、映画館、ボーリング場、ストリップの「フランス座」、見世物小屋の「いなむら劇場」、大道芸人、ちんどん屋、たまにマッチ売りの少女。                                                                                         特に見世物小屋「いなむら劇場」は花屋敷の前にあり、いつも大勢の人が群れをなしていました。子供心に僕はこの「いなむら劇場」が気になって気になってしかたありません。父親に聞いても答えてはくれません。 ただ、店の看板には、ヘビ女来たる。とだけ書いてあるだけです。大人になったらまず先にここへ来よう。いつのまにかこの見世物小屋は消えていました。 ディープでコアな世界だった事は間違いありません。 いろいろなお店に連れて行ってもらいましたが、何よりもお気に入りは、洋食「ヨシカミ」です。「旨すぎて、申し訳ないっす。」がキャッチフレーズのあのヨシカミです。                                                                  店はいつも大忙し。決して広いとはいえない厨房にコックさん達が大勢働いていて、料理長の激が飛びます。まるで戦場のようです。僕はここのビーフシチューとコーンポタージュが大好物。ちょっぴり大人の味。この世にこんな旨い物があるのかと、えらく感動しました。父親は決まってエビフライにビール。母親はポークカツレツ。兄は・・・忘れました。「ヨシカミ」は本当によく、通いました。 この頃僕がコックになるなんて夢にも思いませんでした。帰り道にアンジェラスに寄って、エクレアやプリンアラモード、チョコレートサンデー。 僕にとってスペシャルコース。家に戻れば又アパート暮らし。 決して裕福な生活とはほど遠いですが、気持ちは決して貧しいとは思いませんでした。 昭和の古き良き時代の1ページがここにあります。                                      続く   シェフ 塩川

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