シェフの生い立ち その1

 

東京の下町 両国でやきとん屋「とん太郎」を営む、塩川家の二男坊として昭和38年9月26日に蔵前に生まれ育ちました。

この土地は祖父母の代からなので僕で3代目、江戸っ子を名乗れます。

父親の店「とん太郎」は昭和30年代としてはめずらしく、店にテレビがあり、(家にはまだまだテレビが普及していない時代) プロレスや野球観戦をしながら名物のやきとんや、もつ煮込みをあてに、焼酎やウイスキーのハイボールを売りにしていたそうです。

又、店の入り口にはとんでもなくどでかい赤提灯がさがり、両国という土地柄、相撲部屋の親方や関取衆が顔を見せ、特に高砂部屋の初代横綱、朝潮関には「とんちゃん」の愛称で親しまれ、横綱と差し飲んでも負けなかったとよく自慢をしていました。なにしろ連日連夜大盛況、昭和の古き良き時代の大衆酒場でした。

又、今のカンパーニュの場所で祖父母が食堂「かつら」を営み(昔、蔵前はかつら町と呼ばれていた。)ラーメンやカツ丼、夏はカキ氷といったメニューを出していました。

食堂の二階がアパートになっており、5部屋ほどありました。

自分の家族が4人、とん太郎で働く住み込みの調理人、近所の町工場で働く兄さん、女とギャンブルをこよなく愛す浅草六区の喫茶店のマスター、シャネルの香水をプンプンさせ、下着同然の格好で廊下をウロウロ歩く水商売の姉さん、それとたまに浪人生の下宿人。

当時は台所、洗濯場、トイレは共同。フロなどはなく、近所の銭湯「化粧湯」へ毎日通っていました。

チョイと世の中からはみでた訳ありな人達と共同生活のようなものです。

東京下町はこんな光景はごくごく普通でしたし、両親が共働きで帰宅が遅く、寂しい思いもしましたが、アパートに住む、兄さんや姉さん達が遊び相手になってくれたので楽しい想い出もたくさんあります。

僕の唯一の楽しみは、家族で出かける映画鑑賞会と外食でした。

                                  続く   シェフ塩川

            

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