シェフの生い立ち その4

  昭和50年代 ビルの建設ラッシュ、蔵前の木造平屋が次々に壊されてゆき、下町の面影はだんだんと薄れていく。 僕の家は相変わらずのアパート住まい。なんせ大型トラックが通るたびにマグニチュード7の地震が来て、初めて家に遊びに来る子たちは、大抵ビックリするしバカにする子もいた。せっかくの彼女が出来ても、恥ずかしくて家に呼ぶ事は、ない。 それに、父親の存在だ。 時代に逆境してる様で苛立ちを覚えた。 結局この蔵前の木造アパートは昭和63年まで住み続ける事になりました。 高校はなぜか港区の男子校。といっても、みんなすべり止めで来たような落ちこぼれ学校。柔道部に入部するも3ヶ月で撃沈。あまりの稽古の厳しさに耐えられませんでした。 高校生活って部活に入っていないと何一つ思い出に残らないものです。ただ、漠然と通っていただけです。 特に男子校の夏場は苦痛です。教室内がブルーチーズのような香りがしました。保健室で働くおばちゃんの先生が美人に見えてきたり、半分頭がおかしくなっていたと思われます。女子高に通う生徒さんが男の先生に恋焦がれてしまうのは、分かるような気がしました。 又、おとなりの駅、「三田駅」は数多くの女子高がひしめきあっており、僕も男です。いく時は、いきます。完璧に狩猟民族で肉食系に変貌です。 「へたな鉄砲、数打ちゃ当たる。」 一発も当たりませんでした。誰も相手にしてくれません。ほろ苦い青春時代です。 こんなくすぶっている高校生活に、転機が訪れました。 台東区柳橋の洋食「大吉」さんでアルバイトの人を探していて、僕にやらないかと話がきました。柳橋は向島と同じくらい、料亭がたくさんあり、子供の頃、芸者さん達をよく見かけました。昔ながらの粋な店がいくつかあります。 池波正太郎さんの小説にも柳橋が何度か登場し、洋食「大吉」さんにも通われていたそうです。 生まれて初めてのレストランでのアルバイト。たまたま見つけた広尾の雑貨店。ひまを見つけては通った飯田橋や新宿、中野の映画館。この事が、料理の世界に入り、30歳までに自分の店を持とうという目標をかかげ、途中挫折もしましたが何とか29歳でビストロ カンパーニュをオープンし、自分自身がビストロの世界にのめりこんでいくというきっかけになりました。                               続く

コメント

  1. 景気付けに(笑)連投します。

    >保健室で働くおばちゃんの先生が美人に見えてきたり、
    >半分頭がおかしくなっていたと思われます。
    相当な末期症状だったんですね….(苦笑)

    ところで洋食「大吉」さんで働かれてたんですね。
    まだ行ったこと無いのですが、以前TVでもビーフシチューが取り上げられてたので気になってたんです。
    近所なのでまた発掘がてら行ってみます。

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